温かいお言葉をありがとうございます!
♡チャーコ様
♡kanahiro様
♡Jenny様
♡のん♪様
(順不同でございます)
たま〜に思い出したように書くブログを読んで下さって、コメントまで下さって…
本当にありがとうございますm(_ _)m
11月23日に母が永眠いたしました。
父の死が昨年の12月で、なかなか気持ちを整理、切り替え出来なかった私でしたが、その時もブログに書いてやはり皆様に温かいお言葉をかけて頂いて元気になりました。
そして今度は母の死。皆様には暗い記事ばかりお目にかけてしまって申し訳ないです(。>д<。)
なのに優しいメッセージを下さって
とてもとても嬉しいです(*^^*)
母のことは、父同様自宅で看取るつもりで、訪問医・訪問看護のお世話になっていましたが、亡くなったのは病院のICU個室でした。
なぜそうなったかを、おいおい書こうと思っています。
父と母は仲睦まじい夫婦ってわけでもなかったので、父の死から1年たたないうちに母が逝くなんて意外でした。近所の人たちや親戚がみんな「追いかけたんだよ」と言うものだから、私もその考えに感化されてます。母が追いかけたんだなと(笑)
介護中は「終わりが見えない」と思うものですが、被介護者の死をもってある日突然終わります。
今はやたら時間がある気がしますが、何をしていいのかわかりません。でも何もせずにいると泣けてくるので困ります(笑)
泣きつつも、両親があの世で再会して楽しくやっているかな?と考えるとホッとしたりもします。
みなさま
本当にありがとうございました!
母を荼毘に付すそして嬉しいプレゼント!
今日、母の葬儀がつつがなく終わり
寂しさを抱えつつも
ホッとしている自分がいます。
夕方帰宅すると
郵便受けに宅配会社の不在連絡票が。
再配達を依頼し
先ほど届けられたのは・・・
うわー(°ω°)!
北海道のカレーとチョコレートだーっ(,,>᎑<,,)
そして紙バンドのツリー♪♪♪
のん♪様
ありがとうございます!
ひと息つきます(*´∀`*)
皆様のコメントで気持ちの建て直しが出来そうです
✨Kanahiro様
✨のムのム様
✨チャーコ様
✨石畳のん♪様
✨Jenny様
✨カズ様
(順不同でございます)
それから、拙ブログを読んで下さった皆さま
ありがとうございましたm(_ _)m
「最期に救急車を呼ばなかったこと」は、親戚や近所の人には、その時の状況をなかなか話しづらくて、リアルで人に話したことはありませんでした。
だから、私がいつまでたっても元気にならないのを、「親なんて先に逝くものなんだから、いつまでも泣いてちゃダメよ」なんて言われていたのですが(笑)、父を亡くして悲しい寂しいの気持ちは落ち着いても、救急車を呼ばなかったことが、ずーっと心の重石になっていました。
けれど、父が亡くなった時の詳細をブログに書いて、皆様が父を幸せだった、良い最期だったとコメントして下さったのを拝読して、ああ、私は間違っていなかったのだと思うことが出来そうになってきました。
本当に、心より感謝いたします。
ありがとうございました。
ブログを書いていて良かったです。
良かったと思えるのは
皆様のお言葉のおかげです(*^^*)
備忘録・父が亡くなった朝の不思議な出来事
前々回の記事に日時の間違いがございました。
訪問診療が12月1日(金)
このブログの休止が2日(土)でした。
そして12月3日(日)の朝7時頃、父の食事介助を始めました。このころの父は、用意した量の半分を食べればよい方で、それゆえ往診の先生に経鼻栄養をお願いしてしまったわけですが、この日の朝、父は8割方の量を食べてくれました。
私はびっくりして嬉しくて「お父さん、たくさん食べたね!この調子で食べてくれたら、鼻に管を入れなくてもいいかもよ」と話しかけました。
父は、認知症のそれとは思えない力強い視線でまっすぐに私の顔を見ていました。その顔色は、少し上気したような血色の良い色で、口角を少し上げていました。そのせいか笑っているように見えました。
「どうだ?たくさん食べただろう?」
そう自慢しているようにも見えました。
食器を下げ、口腔ケアの準備をし、介護ベッドの背もたれの角度を45度ぐらいに下げ、いつものように父の口に開口補助具を入れようとしたときです。
普段なら何の抵抗もなく口を開けてくれる父が、ちっとも口を開けてくれないのです。
「お父さん、口を開けて」と言いながら、私は口元や口唇のマッサージをしました。
ところが父は、天井の一点を見つめたまま微動だにしません。私は父の視線の先に回り、父の目の前で手を振ってみました。父はまばたきもせず、すっと視線をずらしました。
ずらした視線の先は、天井の隅でした。今度はそこをじっと見つめながら、軽く口を開け、また口角を上げたのです。その表情は、なんとも穏やかで良い表情でした。
私はこれまでの人生で、人の臨終に立ち合ったことはありません。けれどもこのとき、父は今逝こうとしているとなぜかはっきりわかりました。
それにしても、逝こうとしている人間が、こんなにも良い表情をするのかと驚いたのです。見ようによっては「嬉しそうな顔」をして、父は天井の隅を見つめていました。
私は大声で、別室にいた母と息子(父の孫)を呼びました。私の声も身体も震えていました。
「じいちゃんが、じいちゃんが」それしか言えなかったけど、息子も認知症の母も状況を察して、父の腕をさすり、懸命に呼び掛けました。
父は何も反応せず、相変わらず良い表情で天井の隅を見つめたままです。
私は往診の先生の携帯に電話をしました。幸い、先生はすぐ電話に出て下さいました。父の容態がおかしいと告げると、先生は少し絶句して「こないだはそんな様子はなかったのにね。今、学会の集まりで池袋に来てるの。すぐそちらに向かうけど2時間ぐらいかかっちゃうかな」「池袋ですか!」
一瞬、救急車を呼ぼうかと思いました。しかし、蘇生を試みたところでそれは無駄だろうとわかっていました。運良く蘇生出来たとしても、その後身体中に管を付けられて、数週間か数ヶ月かを生かされるだけなのです、83歳の父が。
逝かせてあげるのが、いちばん父の身体に負担がないのだと、私はわかっていました。だから救急車を呼ぶことはしませんでした。
でも、怖くて怖くて、電話の向こうの先生に「どうしたらいいですか?」と尋ねました。先生は「呼び掛けてあげて。ご家族の声を聞かせてあげて」と仰いました。
やがて父の目線は天井の隅から外れ、目から力がなくなり、瞼が落ちてきました。
そして下顎が小さく動き始めました。これが、死の間際に見られる「下顎呼吸」なのだと思いました。
「先生、下顎で呼吸しています」
「ああ、もうそれは・・・急いで行きますね」
「先生、急がないで下さい。安全運転で」
私は壁掛け時計を見ました。8時25分頃でした。
私は「お父さん!」と、母は「あなたー!」と、息子は「じいちゃん!」とそれぞれの呼び方で父に呼びかけました。聞こえていたかなー。
それからすぐに、父の下顎は動かなくなりました。 瞼は自然に閉じていました。
☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆
しっかり朝食を食べて、穏やかに父は逝きました。
そんなに管を付けられるのは嫌だったのでしょうか(笑)
父が見つめ続けた天井の隅には、迎えに来てくれた父の両親や兄がいたのでしょうか(笑)
誰もが、父は幸せな最期を迎えられたのだと言って下さいます。
でも私は、救急車を呼ばなかった自分が許せません。助からないとわかっていても、主治医が来られない状況だったのだから、呼ぶべきだったのではないかと、今でも思い返すと胸が苦しくなります。
コメントありがとうございます。・゚・(ノ∀`)・゚・。
kanahiro様
石畳のん♪さま様
チャーコ様
のムのム様
(順不同でございます)
ご無沙汰していたにもかかわらず
読んで下さって
コメントまで下さって
本当にありがとうございます!
まさか読んでいただけるとは思っておりませんでしたし、ましてやコメントを頂けるとは思っておりませんでした。
皆様のコメントを拝読して私は泣きました。
おひとりおひとりにお返事書かずに
申し訳ございません。
これまで、父の介護の話を中心にブログを書いていて、皆様から応援や励ましを頂いていたのに、父が亡くなったことをすぐにご報告もせず、皆様にお礼も言わずブログをほったらかしにしていて、すみませんでした。
50も過ぎて情けない話なのですが、父が死んで、自分でもびっくりするぐらい落ち込んでしまいました。ブログを書こうとしても、どうしても書けませんでした。ブログだけではなく、友人や近所の人としゃべることも出来なくて、心療内科に通ってカウンセリングを受けていました。
カウンセリングの効果か「時間が薬」だったのかわかりませんが、この頃、父の死も含めて様々なことを客観視出来るようになってきましたので、父の穏やかだった最期を、皆様にご報告しようと思うに至りました。
父の最期は、ちょっと不思議な出来事もあって(笑)
私自身、書き残しておきたいなぁとも思ったのです。
でもその前に、コメントを下さった皆様に
心よりお礼申し上げます。
ありがとうございましたm(_ _)m(*^^*)
備忘録・父が亡くなる前日のこと
昨年12月2日に「父の状態が良くないので」とネットを離れ、半年以上が過ぎました。
結論から言うとその翌日、12月3日に父は亡くなりました。
実は、11月の下旬から、父の食事摂取量が少し落ちていました。父のような状態で摂取量が減るということは、すなわちお迎えがすぐそこ、ということです。
私は、父に限って言えば「口から食べられなくなったら無理な延命はせず、静かに見送る」と決めていました。
年老いて、認知症の末期で食べられなくなって死んでいくのは、非常に自然な終わり方でありましょう。
それに父は83歳でしたから、その終わり方ならそれは天寿を全うしたと言えるとも思っておりました。
そう決めていたのに、実際に食べる量が減っていく父を見ていたら「何とかして生きていてもらいたい」と思ってしまいました。
私は父を失うことが怖かったのです。大好きな父には、寝たきりだろうが何だろうが、生きていてほしかったのです。
食べられなくなっていく父をただ見守るだけというのは、非常に辛い時間でした。終末期に「無理な延命はしない」という選択は、自然で合理的ではありますが、選択した当人はともかく、介護者としては、このまま死なせていいのか、過激な言葉になりますが「見殺し」に近いのではないか、そんな思いが浮かんでは消え消えては浮かび、私は必死な思いで、父の口元にスプーンを運んでいました。ひとさじでも多く食べてちょうだいと祈りながら。
そして12月2日は、ちょうど訪問診療の日でした。
私は先生に「延命はしないと言っていたけれど、もう少し、父と一緒にいたいです」と言いました。少し涙ぐんでしまったと思います。
先生はしばらく考えて「それじゃあ経鼻で栄養を入れようか。でもそれで1週間延びるか、1ヶ月延びるかはわからないよ」と仰いました。
「お願いします。管はしないと言っていたのにすみません」
「あやまることないよ。いざ死期が近いとなったら、何とかしたいと思うのが人間でしょう。ましてや親御さんだものね。じゃあ月曜日にやりましょう」
先生と私は父のベッドの横でそのような会話をしました。父にこの話がわかるわけがないのですが、「もしかしてわかっていたの?お父さん!」という出来事が
翌日(亡くなる当日)にありました。
See you again someday
父の状態が良くないので
しばらくネットから離れます。
今までは介護だけでしたが、看病も加わりそうなので(◎-◎;)←プチパニック(笑)
こんな日記ブログ駄ブログを読んで下さった皆さま、メッセージを下さった皆さま
ありがとうございましたm(_ _)m
ひょっこり戻ってきたら、またよろしくお願いいたします(*´∇`)ノ