こんな感じで生きてます

認知症の両親、私、息子、猫の毎日を綴ります。

備忘録・父が亡くなった朝の不思議な出来事

前々回の記事に日時の間違いがございました。

訪問診療が12月1日(金)
このブログの休止が2日(土)でした。

そして12月3日(日)の朝7時頃、父の食事介助を始めました。このころの父は、用意した量の半分を食べればよい方で、それゆえ往診の先生に経鼻栄養をお願いしてしまったわけですが、この日の朝、父は8割方の量を食べてくれました。
私はびっくりして嬉しくて「お父さん、たくさん食べたね!この調子で食べてくれたら、鼻に管を入れなくてもいいかもよ」と話しかけました。

父は、認知症のそれとは思えない力強い視線でまっすぐに私の顔を見ていました。その顔色は、少し上気したような血色の良い色で、口角を少し上げていました。そのせいか笑っているように見えました。
「どうだ?たくさん食べただろう?」
そう自慢しているようにも見えました。

食器を下げ、口腔ケアの準備をし、介護ベッドの背もたれの角度を45度ぐらいに下げ、いつものように父の口に開口補助具を入れようとしたときです。

普段なら何の抵抗もなく口を開けてくれる父が、ちっとも口を開けてくれないのです。
「お父さん、口を開けて」と言いながら、私は口元や口唇のマッサージをしました。

ところが父は、天井の一点を見つめたまま微動だにしません。私は父の視線の先に回り、父の目の前で手を振ってみました。父はまばたきもせず、すっと視線をずらしました。

ずらした視線の先は、天井の隅でした。今度はそこをじっと見つめながら、軽く口を開け、また口角を上げたのです。その表情は、なんとも穏やかで良い表情でした。

私はこれまでの人生で、人の臨終に立ち合ったことはありません。けれどもこのとき、父は今逝こうとしているとなぜかはっきりわかりました。

それにしても、逝こうとしている人間が、こんなにも良い表情をするのかと驚いたのです。見ようによっては「嬉しそうな顔」をして、父は天井の隅を見つめていました。

私は大声で、別室にいた母と息子(父の孫)を呼びました。私の声も身体も震えていました。
「じいちゃんが、じいちゃんが」それしか言えなかったけど、息子も認知症の母も状況を察して、父の腕をさすり、懸命に呼び掛けました。

父は何も反応せず、相変わらず良い表情で天井の隅を見つめたままです。

私は往診の先生の携帯に電話をしました。幸い、先生はすぐ電話に出て下さいました。父の容態がおかしいと告げると、先生は少し絶句して「こないだはそんな様子はなかったのにね。今、学会の集まりで池袋に来てるの。すぐそちらに向かうけど2時間ぐらいかかっちゃうかな」「池袋ですか!」

一瞬、救急車を呼ぼうかと思いました。しかし、蘇生を試みたところでそれは無駄だろうとわかっていました。運良く蘇生出来たとしても、その後身体中に管を付けられて、数週間か数ヶ月かを生かされるだけなのです、83歳の父が。

逝かせてあげるのが、いちばん父の身体に負担がないのだと、私はわかっていました。だから救急車を呼ぶことはしませんでした。

でも、怖くて怖くて、電話の向こうの先生に「どうしたらいいですか?」と尋ねました。先生は「呼び掛けてあげて。ご家族の声を聞かせてあげて」と仰いました。

やがて父の目線は天井の隅から外れ、目から力がなくなり、瞼が落ちてきました。
そして下顎が小さく動き始めました。これが、死の間際に見られる「下顎呼吸」なのだと思いました。

「先生、下顎で呼吸しています」
「ああ、もうそれは・・・急いで行きますね」
「先生、急がないで下さい。安全運転で」

私は壁掛け時計を見ました。8時25分頃でした。

私は「お父さん!」と、母は「あなたー!」と、息子は「じいちゃん!」とそれぞれの呼び方で父に呼びかけました。聞こえていたかなー。
それからすぐに、父の下顎は動かなくなりました。 瞼は自然に閉じていました。

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しっかり朝食を食べて、穏やかに父は逝きました。
そんなに管を付けられるのは嫌だったのでしょうか(笑)

父が見つめ続けた天井の隅には、迎えに来てくれた父の両親や兄がいたのでしょうか(笑)

誰もが、父は幸せな最期を迎えられたのだと言って下さいます。
でも私は、救急車を呼ばなかった自分が許せません。助からないとわかっていても、主治医が来られない状況だったのだから、呼ぶべきだったのではないかと、今でも思い返すと胸が苦しくなります。